うつパパ育児

うつパパ育児

うつ病のパパが綴る子育て生活

うつ病どん底だったあの頃の育児③【乳児前編】

 

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破裂寸前

 新生児の頃はお義母さんが食事を作ってくれ、洗濯をしてくれ、夜泣きに対応してくれ、買い物もしてくれ、妻のメンタルケアもしてくれていたのだ。そんなお義母さんが遠方へ帰ってしまった。他の孫の幼稚園の送り迎えやお世話だってあるのだから、いつまでも居られないのは当然だ。

正直これはヤバいと薄々気づいていた。でも深く考えなかった。

僕は愚か者であった。

お義母さんが居なくなって、一気に負担が増えた妻は情緒不安定になった。夜も定期的な授乳+不定期な夜泣きで、慢性的な睡眠不足。夫(僕)は夕方定時で仕事から帰ってくるが、だいたいうつ病でぐったりしていて、時に妻を休ませたり役立つこともするが、時につらいつらいと訴えてくることもある。

僕の転職に際して地元から遠方へ越してきた妻には頼れる家族も悩みを話せる知人もおらず、大層心細い思いをしていたのではないかと思う。

しかし僕もこの頃仕事は相変わらずミスが目立ち、転職後にまた休職に陥らないように自分の体調管理に必死であった。前職で二度休職した僕はあの恐ろしさを知っている。収入がなくなること、働けなくなることの怖さ、いや再び寝たきりに逆戻りになる可能性もある。一度転んでしまえば立ち上がるまでにまたどれだけの時間を費やさなくてはいけないのか。

お互いへの不満が口を出て、夫婦仲が険悪になったときもあった。

うつ病の夫と育児ノイローゼ寸前の妻。

我が家はどん底であった。

改善策を探しながらも有効な一手がない。そんな状態が数ヶ月続いたのち、僕ら夫婦はついに突破口を見つけることとなる。

続く

うつ病どん底だったあの頃の育児②【新生児編】

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こどもが産まれた朝、すぐに上司に連絡して有給を取らせてもらった。

病室で妻に感謝を伝え、保育器の中の我が子との対面。

しわしわで胎脂が付いていて、その小さな手が僕の指を握る。

実際は新生児の把握反射だ。しかし、うつ病を発症して以来、周りに迷惑をかけ、上司に頼り、同僚に頼り、妻に頼ってきた僕が、この子に頼られていると思った。

それは小さな、しかし確かな変化だった。

 

新生児のころは妻の母が居てくれていたので、基本的に調子の良いときにあやしたり寝かしつけたりおむつを替えたりすれば良かった。僕は睡眠薬を飲んで寝ていたし、夜間起きるとそのまま朝まで眠れず最悪の体調で出勤することになるため、夜泣きは妻や義母が対応してくれた。

ああ、なんとかやっていけると錯覚していた。

育児の辛さを思い知るのは義母が居なくなってからだった。

続く

うつ病どん底だったあの頃の育児①【切迫早産編】

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ある日僕はとても良い名前を思いついた。

それは清々しくて、凛々しくて、僕が本当に大事にしてもらいたいことを込めた名前だ。妻の妊娠が分かってからずっと悩んでいた名前問題に答えがでたことに満足し、その名前を妻に伝えようと病院へ向かった。妻は切迫早産で入院していた。

子宮収縮を抑える点滴に繋がれた妻は痛々しい。薬の副作用で怠そうだ。妻が入院して2ヶ月、精神的に支えとなっていた妻が入院したことは大きな痛手だった。重い足取りで妻のベッドサイドに座る。

うつ病診断後、退職し、静養、同業他社へ転職し働いていた頃だった。毎日何とかフルタイムで働いていたが、疲れは抜けきれず疲労困憊していた。仕事ではミスが目立っていた。うつ病であることを知っている上司によりミスは修正され問題はなかったが、ミスが増えることはうつ病が悪化しつつあることを示すサインであることを僕は経験上知っていた。ヤバい。仕事のあとに妻の病室に顔を出し、家では一人。朝も晩も買い込んだカロリーメイトとビタミン剤だけを食べて、家ではひたすら横になって休む。

うつ病悪化、妻入院という薄氷の上を歩くようなギリギリの生活を送っていたところに、妻の母が遠方から応援に来てくれた。本当に助かった。

37-8週を越えたころ、いつ陣痛が来ても良いでしょうと退院の許可が下りた。

妻の母の助けもありしばし平穏な時を過ごしたある朝、産まれていたのである。玉のような男の子が。

続く